往年の恋愛映画はお好きですか?名作も衝撃作も、今でもいろいろな愛の形を教えてくれます!世界各国の恋愛映画の中でも、特に衝撃的な恋愛体験を映し出した作品を集め、原作や関連作、リメイク版などとも比較しながらまとめていきます。各作品に登場する「名言」を繙きながら、世界を巡ってみたいと思います!
目次
《1》ロミオとジュリエット
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」は今までに7回映画化されています。その中でも名作と名高い1968年版と、時代設定を現代に変えた1996年版をご紹介します!
ロミオとジュリエット(1968)〈イタリア・イギリス〉
イタリア映画界の巨匠フランコ・ゼフィレッリ監督によるシェイクスピア悲劇の芸術作品で、イギリスとイタリアの合作映画です。主演はイギリス出身のレナード・ホワイティングとオリビア・ハッセーで、それまでの「ロミオとジュリエット」映画化作品の中では一番役柄との実年齢が近い俳優を起用し、よりこの悲劇的恋愛を忠実に再現しています。
音楽担当は「ゴッドファーザー」の音楽で著名なイタリアの音楽家ニーノ・ロータで、映画のロケもイタリアで行われました。
ロミオ+ジュリエット(1996)〈アメリカ〉
オーストラリア出身で「ムーラン・ルージュ」でも有名なバズ・ラーマン監督による現代版「ロミオとジュリエット」です。主演はレオナルド・ディカプリオとクレア・デインズで、モンターギュ・キャピュレット両家の争いをマフィアの抗争に置き換えて作られています。
物語の舞台はブラジルの架空の都市ヴェローナ・ビーチで、衣装はアロハシャツ、戦う武器は剣ではなく銃!激しい銃撃戦の起こる「ロミオとジュリエット」はかなり新鮮です。
What’s in a name?
Juliet:What’s in a name? That which we call a rose by any other word would smell as sweet.
ジュリエット:名前がなんだというの?バラと呼ばれるあの花は、他の名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない。
rhinoos.xyz
「ロミオとジュリエット」の中で最も有名なバルコニーでのシーンで、ジュリエットがロミオを想って語る独り言のセリフの一部です。
ヴェローナの名家モンタギュー家とキャピュレット家の争いが、若い二人の恋を引き裂いていることを嘆き、いっそ名前など捨ててしまって!とつぶやくジュリエット。それに応えたロミオと恋人同士になるシーンです。
《2》愛のコリーダ
1936年(昭和11年)に実際に起きた「阿部定事件」を取り上げた作品です。男女の愛と欲の果てに行き着いた究極の選択に驚愕!青年将校が起こした軍事クーデター「二・二六事件」と同年に起こったこの猟奇的な事件を、“芸術か猥褻か”の議論を生むほど、過激に表現しています。
愛のコリーダ(1976)〈日本・フランス〉
大島渚監督による時代を超えた愛と性の衝撃作!主演は松田英子、藤竜也で、体当たりの演技が非常に話題になりました。
当時の日本では十分な性描写ができないと、日本で撮影しフランスで編集するという製作方法を取ったことでも有名です。
しかし1976年の日本公開時、大幅な修正によりこの作品は大島監督の意図したものとしては伝わりませんでした。
愛のコリーダ2000(2000)〈日本〉
時を経て2000年、完全ノーカット版としてリバイバル上映されました。私もこの時に劇場へ観に行きました!何もかもがあまりにも衝撃的でした…。
定 吉 二人キリ
「これからは片時離さず、わが身を持ち添える気で、思い出の深いところを切り取ってハトロン紙に包みました。それでこの家から出てゆこうとして見返ると、この場に残しておく石田のからだの愛しさに、思わず立ち戻って、いま切り取った傷口から出る血を指先につけ、左モモに『定吉2人』と書いた。あなただけ1人でここに残しておくのではありません。私もどこまでも一緒ですというつもりでした。それでもまだ足りないような気がしたので、今度は敷布に大きく『定吉2人キリ』と書いた。これは妻も妾も近寄せないというつもりでした」(阿部定の供述)
yabusaka.moo.jp
阿部定が愛人の吉蔵を扼殺し、局部を切り取った後に書いた言葉で、定の情念の到達点がこの言葉に集約されていると感じました。定の愛情・性欲・人生全てを受け入れた吉蔵の男としての包容力に驚きます…!こんな吉蔵を演じきった藤竜也は本当に凄い!
《3》私の頭の中の消しゴム
日本のテレビドラマ「Pure Soul~君が僕を忘れても~」(2001)を原作とした韓国映画で、若年性アルツハイマー病を題材にした純愛ラブストーリーです。
私の頭の中の消しゴム(2004)〈韓国〉
監督・脚本、チョン・ウソン、ソン・イェジン主演の恋愛映画で、若年性アルツハイマー病にかかった妻スジンと、そんな彼女を献身的に愛する夫チョルスとの葛藤と深い愛情を描いた作品です。
原作となった「Pure Soul~君が僕を忘れても~」の中のヒロインが言う「私の頭の中には消しゴムがあるの」というセリフが、この映画のタイトルになっています。この言葉は若年性アルツハイマー病の症状である健忘性を表しています。
ドラマ版では妊娠・出産までを描いていますが、この作品では夫婦間の絆と恋愛を中心に描いています。
Pure Soul~君が僕を忘れても~(2001)〈日本〉
2001年に日本テレビ系列で放映された全12話のテレビドラマで、永作博美、緒方直人が主演の純粋な夫婦愛を描いた物語です。
「私の頭の中の消しゴム」の原作ドラマであり、アルツハイマーという病気がいかに患者やその家族の心をむしばんでいくか、とても考えさせられるストーリーです。
子供に二分の一の確率で遺伝する病気で、精神的余命は5年と診断された妻・薫が、妊娠していることがわかり葛藤する夫・浩介―二人の決断に夫婦の信頼関係の強さを感じます。
내가 다 기억해줄게
내가 다 기억해줄게
ネガ タ キオッケジュルケ
(僕が全部覚えておくよ)
네가 다 잃어버리면 내가 짠하고 나타나서 다시 꼬시는 거야
ネガ タ イロポリミョン ネガ チャンハゴ ナタナソ タシ コシヌンゴヤ
(君が全部忘れたら、僕がジャーンって現れてまた口説くよ)
어때? 죽이지? 넌 평생 연애만 하는 거야
オッテ チュギジ ノン ピョンセン ヨネマン ハヌン ゴヤ
(どう?最高だろ?君は一生恋愛だけするんだよ)
www.konest.com
若年性アルツハイマー病と診断されたスジンが、病気のことをチョルスに打ち明けた時に彼が言ったセリフです。ショックであってもそれを見せずに、前向きにスジンを励ますチョルスに健気さを感じる場面です。
この他にも、スジンが記憶を失いつつある中、チョルスに宛てて書いた手紙や、自分のことも忘れていくスジンを切なく感じるチョルスが言うセリフなど、名言がたくさんあります。
《4》さらば、わが愛 覇王別姫
1993年に香港・中国で製作された合作映画で、京劇役者の目を通して近代中国の波乱の50年間を描いた大作です。
原題の「覇王別姫」とは、劇中に登場する京劇作品のことで、中国の秦の時代に活躍した楚の武将・項羽とその妻・虞姫(虞美人)の物語です。
さらば、わが愛 覇王別姫(1993)〈香港・中国〉
陳凱歌(チェン・カイコー)監督による芸術大作で、主演は張國榮(レスリー・チャン)、張豊毅(チャン・フォンイー)、鞏俐(コン・リー)です。
1930年代、北京の京劇俳優養成所で出会った小豆子と石頭は、成長して程蝶衣と段小楼という芸名で京劇のトップスターとなります。二人の十八番劇は「覇王別姫」。そんな中で二人は日中戦争、国民党の支配、共産党の政権下での1960年代の文化大革命と、時代に翻弄されていきます。蝶衣の小楼への想い、小楼の妻・菊仙との三角関係の果てに訪れる悲劇…ラストのあまりの切なさに涙します。
京劇「覇王別姫」~漢楚の戦い~
2014年に日本の三都市で天津京劇院による「覇王別姫」の京劇公演が行われました。虞姫役で著名な梅蘭芳(メイランファン)の生誕120周年を記念した事業で、項羽と虞姫との別れの場面を描いた「覇王別姫」だけでなく、通しでの演目公演でした。
またチェン・カイコー監督は、この名女形・梅蘭芳を主人公とした京劇映画「花の生涯 梅蘭芳」(2008)を撮っています。
我本是男兒郎、又不是女嬌娥。
あれから11年、再会。楚王と虞姫。老いても尚、美しく妖しく儚い姿がそこにある。
行き絶え絶えの台詞に、肩を寄せ合って生きていたあの頃を思い出し、微笑む蝶衣。小樓は、道化て見せる。「また間違えたな。」溢れ出る極上の笑み。
これこそが望んでいたもの、小豆と小頭に戻る瞬間に、愛の彷徨が終わりを告げる。
「女ではない、男として生を受けた・・・・女では、ない」
www.forleslielovers.net
蝶衣は小豆として養成所で稽古をしていた頃から、「覇王別姫」の虞姫のセリフを「男として生を受け…」と言い間違う癖がありましたが、ある時から間違わなくなりました。それはきっと、蝶衣が女形として京劇の世界で生きていくと決意した時でした。
様々な時代に翻弄され続けた蝶衣と小楼が、最後に11年ぶり再会し、小楼にそれを冗談めかして言われた時、永遠に実らない恋を悟ったように繰り返して言った蝶衣のこの言葉は、あまりにも哀しく美しかったです。
《5》愛人/ラマン
フランスの女流作家マルグリット・デュラスの自伝的小説を原作とした恋愛映画で、1992年にフランス・イギリス合作で製作されました。
1920年代のフランス領インドシナのベトナムが舞台であり、原作はフランス語ですが、映画は英語で製作されています。
愛人/ラマン(1992)〈フランス・イギリス〉
フランスのジャン=ジャック・アノー監督による異色の純愛映画で、この作品が映画デビューとなったイギリス出身のジェーン・マーチと、香港出身のレオン・カーフェイが主演を演じています。
1929年のフランス領インドシナ、ベトナムで貧しい暮らしをする15歳のフランス人少女が、メコン川を渡る船の上で一人の華僑の青年と出会います。少女は青年と衝撃的な初体験をし、彼の愛人となっていきます。
愛人(ラマン)(1984)
マルグリット・デュラスが1984年に発表した、自身のフランス領インドシナでの生活、中国人青年との恋愛体験を基に綴った自伝的小説です。
デュラスは映画化された「愛人/ラマン」の出来には不満を示していたといいますが、映画も小説と同じように大ヒットを記録しました。
A dix-huit ans j’ai vieilli.
やはり、『ラマン』が衝撃的なのは、冒頭に出てくる、「A dix-huit ans j’ai vieilli.」のフレーズだよなあ。「18歳で、私は年老いた」。すごく、文学的な表現だと思う。「自由な解釈」というものが、許されるとするなら、ここでいう「老いる」というのは、表層的には、文字通りの「それ」であるのもさることながら、それまで、穢れを知らなかった少女が、オトコに翻弄されて、落ちていくというのは、どういうことなのか。そういう部分にも繋がってくると思う。
blog.livedoor.jp
映画の冒頭でもこのフレーズは成長した少女のナレーションで語られます。ナレーションはフランスの名女優ジャンヌ・モロー。実はジャンヌ・モローはデュラスの晩年を描いた映画「愛人 ラマン 最終章」に、デュラス役として主演しています。
18歳で年老いた…この一言でこの作品の少女の運命を言い表していて、非常に印象的であり象徴的なセリフです。
《6》華麗なるギャツビー
アメリカ文学を代表する作品の一つであり、F・スコット・フィッツジェラルドの代表作でもある「グレート・ギャツビー」は、今までに5回映画化されています。その中でも有名でありヒットした1974年版と2013年版をご紹介します!
物語はアメリカ1920年代、“ローリング・トゥエンティーズ”と呼ばれた大恐慌前の華やかで軽薄な、金がすべてを支配するニューヨークを舞台にし、成り上がって実業家になったジェイ・ギャツビーと、ぜいたくな暮らしが生きがいのデイジーとの哀しい恋愛を描いたものです。
華麗なるギャツビー(1974)〈アメリカ〉
1974年版はジャック・クレイトン監督、ロバート・レッドフォード、ミア・ファロー主演で、脚本をフランシス・フォード・コッポラが手掛けています。アカデミー賞では衣装デザイン賞と編曲賞を受賞しています。
謎多き実業家であるジェイ・ギャツビーをロバート・レッドフォードが、そして可憐で軽薄なデイジーをミア・ファローが演じていて、それぞれ少し上品すぎるような印象を受けますが、作品全体としては原作に忠実で名作だと思います。
華麗なるギャツビー(2013)〈アメリカ・オーストラリア〉
2013年版はバズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ、キャリー・マリガン主演で、物語の語り手であるニック・キャラウェイをトビー・マグワイアが演じています。
バズ・ラーマン監督らしく豪華絢爛さが目立つこの作品は、衣装をプラダやブルックス・ブラザーズが、ジュエリーをティファニーが提供したことで、さらに画面を華やかにしています。
ディカプリオのギャツビーは、私が抱いていた“老成してしまったけれど純粋な”ギャツビーのイメージに割と近く、デイジーも可憐さと浮世離れした感じも両方持ち合わせていて良かったと思います。
Why,of course you can.
Nick Carraway: You can’t repeat the past.
Jay Gatsby: Can’t repeat the past?
Nick Carraway: No…
Jay Gatsby: Why, of course you can… of course you can.
www.imdb.com
物語の語り手でありギャツビーの唯一の親友となるニック・キャラウェイが、デイジーと五年前の以前のままのようにやり直すと言い出すギャツビーをたしなめる場面です。
ニックが「過去を繰り返すことはできないよ」と言うと、ギャツビーは「過去は繰り返せない?」と返し、こう言います。
「なぜだ?できるとも」
この強い気持ちこそがギャツビーをここまで導いてきたのだろう…となぜだか物悲しくなるセリフです。ここまで思っても本当の純粋な愛を手に入れることができないギャツビーは、過去に囚われた時代に置いて行かれるものの象徴のようです。
《7》ロリータ
ロシア出身のアメリカの作家ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」(1955)を原作とした作品で、今までに2回映画化されています。
中年の大学教授ハンバート・ハンバートが偏愛した少女ドローレス・ヘイズ(愛称ロリータ)。「ロリータ」という言葉は“ロリータ・コンプレックス”や“ロリータ・ファッション”など、今も影響を残すほどの社会現象を起こしました。
ロリータ(1962)〈イギリス・アメリカ〉
1962年版の「ロリータ」はスタンリー・キューブリック監督による作品です。主演はジェームズ・メイソン、スー・リオン。
脚本は原作者のナボコフ自身によるものですが、このオリジナルの脚本は二割ほどしか使われていないといいます。
アメリカの厳格な規制により性的な表現は全くなく、原作の舞台がアメリカであるのに、イギリスの俳優でイギリスでの撮影になりました。またロリータの年齢も少し上の設定に変わっています。
ロリータ(1955)
1997年版の映画「ロリータ」はエイドリアン・ライン監督、ジェレミー・アイアンズ、ドミニク・スウェイン主演で、少女性愛的な場面なども含めて原作に忠実に描かれたため、アメリカでの公開延期やヨーロッパでの上映反対運動が起こりました。
原作の「ロリータ」は、当時出版拒否や発禁処分などを受けましたが、発表した後はベストセラーになりました。後年ナボコフの小説は文学作品として認められましたが、少女偏愛という難しいテーマのため、映像化した映画ではどちらも原作の意図を表現しきれていないという批判があります。
Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul.
“Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo. Lee. Ta.”
“ロリータ、わが生命の灯火、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロ、リー、タ。舌の先が口蓋を三歩進んで、三歩目に軽く歯に当たる。ロ。リー。タ。”
www2.dokkyo.ac.jp
12歳の少女ロリータの小悪魔的魅力に憑りつかれてしまったハンバート。冒頭のこの二行に、彼の未来と事の顛末を含めすべてが表された名文です。
身を滅ぼすとわかっていても突き進んでしまった中年男性の恋に、哀れさを感じます。
《8》ピアノ・レッスン
19世紀のニュージーランドを舞台にした恋愛映画で、監督はニュージーランド出身のジェーン・カンピオン、主演はホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル、音楽はマイケル・ナイマンが担当しました。
スコットランドから娘と、結婚相手の待つニュージーランドへ来た女性エイダと、原住民のマオリ族に同化して暮らす男性ベインズとの出会いと恋を描いた作品で、ピアノのレッスンを通じて心を通わせる様子を描いています。
ピアノ・レッスン(1993)〈ニュージーランド・オーストラリア〉
主人公エイダは話ができない代わりにピアノで思いを伝える女性。娘のフローラとピアノを持ってスコットランドからニュージーランドへ渡ってきたのですが、結婚相手のスチュアートは重いピアノを家に運ばず、海辺に放置します。
海辺でピアノを弾くエイダの姿、それを見て彼女にピアノを習うベインズ―二人は秘密のレッスンをしながら次第に惹かれあい、激しい恋が始まります。
初めの海辺のピアノと、終わりの海の中のピアノ、二つのイメージが鮮烈に心に残る抒情的な作品です。
ピアノ・レッスン オリジナル・サウンドトラック(1993)
マイケル・ナイマンによるこのサントラ盤は、全世界で300万枚を超える売り上げを記録しました。
メインテーマであるピアノソロ曲「楽しみを希う心」はCM曲やヒーリング・コンピレーションアルバムにも使われました。劇中ではエイダ役のホリー・ハンター自身が演奏しています!
There is silence where hath been no sound
Ada: There is a silence where hath been no sound / There is a silence where no sound may be / In the cold grave, under the deep deep sea. -Thomas Hood…
www.imdb.com
ラストでエイダが夢想する海に沈んだピアノと自分の姿―その時に読まれる詩が、このトマス・フッドの「沈黙」という詩の三行です。
「音の存在しない世界を満たす沈黙―
音が存在しえない世界の沈黙が―
海底の墓場の深い深いところにある」
6歳で話すことができなくなったエイダは、自らの沈黙を守りピアノでのみ感情を表現してきましたが、過去の自分を壊れたピアノという棺桶ごと海に沈めたことで、自分の人生に一つの区切りを見出してこの詩を読んだのでしょうか。
《9》ベルリン・天使の詩
1987年に西ドイツ・フランス合作で製作されたファンタジー・ラブストーリーで、ドイツのヴィム・ヴェンダース監督のアートな世界観を表現しています。主演は「ヒトラー~最後の12日間~」でヒトラーを演じたスイス出身のブルーノ・ガンツと、この作品で女優デビューしたフランス出身のソルヴェーグ・ドマルタンです。
ハリウッドのリメイク版として1998年に「シティ・オブ・エンジェル」が製作されています。
ベルリン・天使の詩(1987)〈西ドイツ・フランス〉
ベルリンの壁が崩壊するわずか二年前に、天使が人間となって東西を壁で隔たれているベルリンに降り立つという物語を映画として発表しているヴィム・ヴェンダース。天使界と人間界、男と女、子どもと大人のように、二つの世界をベルリンの壁と共に描いています。そしてその二つが合わさって一つの世界になることを予見していたかのような内容に驚きます!
この作品の特色は、それまでモノクロだった映像が一気にカラーに変わるシーン!人間に恋した天使が、彼女と同じ人間になってから、目に見える世界が彩りに満ち溢れるという素晴らしい演出です。
ダミエルは人間になれば天使とは違って生に限りがあると知っていても、恋したマリオンと共に生きることを選びます。
シティ・オブ・エンジェル(1998)〈アメリカ〉
ベルリン・天使の詩」を1998年にリメイクした作品で、監督はブラッド・シルバーリング、主演はニコラス・ケイジ、メグ・ライアンです。
舞台をロサンゼルス(=スペイン語で天使たちの意)に変え、死を告げる天使セスと外科医のマギーとの恋愛を描いています。ラストは「ベルリン・天使の詩」と違い、切なく哀しい展開を迎えます。
Als das Kind Kind war,
Als das Kind Kind war,
ging es mit hängenden Armen,
wollte, der Bach sei ein Fluß,
der Fluß sei ein Strom
und diese Pfütze das Meer.
Als das Kind Kind war,
wuß te es nicht, daß es Kind war,
alles war ihm beseelt,
und alle Selen Waren eins.
www.wim-wenders.net
映画の冒頭、この「子供は子供だった頃…」と始まるピーター・ハントケの詩の朗読で物語は始まります。ハントケはこの作品でヴィム・ヴェンダースと脚本を担当し、4章からなるこの詩は作品中それぞれの場面で4度読まれます。作品全体を象徴する重要なテーマを秘めています。
第1章
子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ 川は河になれ
水たまりは海になれ と思った
子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり 魂はひとつと思った
子供は子供だった頃
なにも考えず 癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ(```)
カメラを向けても 知らぬ顔
www.geocities.jp
《10》黒いオルフェ
1959年に製作されたブラジル・フランス・イタリア合作作品で、フランスのマルセル・カミュ監督、ブレノ・メロ、マルペッサ・ドーン主演の恋愛映画です。原作はヴィニシウス・ヂ・モライスの戯曲「オルフェウ・ダ・コンセイサゥン」(1956)で、音楽はモライスと共にボサノヴァの創生者とも言われるアントニオ・カルロス・ジョビンが担当しました。
1999年には同じ原作で、ブラジルの監督カルロス・ヂエギスによるブラジル製作の映画「オルフェ」が公開されました。
黒いオルフェ(1959)〈ブラジル・フランス・イタリア〉
ブラジル人の原作をフランス人の監督が製作したため、ポルトガル語版とフランス語版があります。原作はギリシャ神話のオルペウスとエウリュディケの物語を基に、舞台を作品公開当時のカーニバル前後のリオデジャネイロに移して、主人公二人オルフェとユーリディスの悲恋を描いています。
劇中でオルフェがギターを弾きながら歌っているのが、この映画で大ヒットした「カーニバルの朝(黒いオルフェ)」。また「フェリシダージ(悲しみよさようなら)」はユーリディスを抱きながら丘を登るオルフェが口ずさみます。
オルフェ(1999)〈ブラジル〉
1999年のこの作品は、主演トニー・ガヒード、パトリシア・フランサで、原作は「黒いオルフェ」と同じモライスの戯曲です。
監督のカルロス・ヂエギスは、「黒いオルフェ」は悲恋の要素が主でブラジルの文化やスラム街のファヴェーラの本質を描いていないため、今作は「黒いオルフェ」のリメイク作品ではないことを語っています。
音楽は「黒いオルフェ」の「カーニバルの朝」や「フェリシダージ」などの代表曲も使われています。
Manhã de carnaval(カーニバルの朝)
Manhã tão bonita manhã
Na vida uma nova canção
Cantando só teus olhos
Teu riso tuas mãos
Pois há de haver um dia
Em que virás
Das cordas do meu violão
Que só teu amor procurou
Vem uma vóz
Falar dos beijos perdidos,
nos labios teus
Canta o meu coração
Alegria voltou
Tão feliz a manhã desse amor
〜 美しい朝 この朝
朝は目覚めの時に
あさつゆを優しく置きにくる
私の心の花咲くところに
私のギターから生まれる声が
悲しげに君の愛を求める
消えた愛を
失われた君の口づけを
私の心が歌う
歌え歌え わが心よ 〜
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
オルフェが弾き語りユーリディスが踊る二人の出会いのシーンと、子どもたちがオルフェの歌を引き継いで歌うラストシーンにこの曲が使われています。
この歌が二人の悲恋の行方と、また次世代の新しい“オルフェ”が生まれていくことを表しているようです。
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