アメリカが“世界の警察“と呼ばれてきた現代ですが、世界はめまぐるしく変わり、その役割にも転換期が来ているようです。一世紀に渡り世界の戦争・紛争・内戦に参戦・介入してきたアメリカの実情がうかがえる戦争映画を選んで時系列を追って並べてみました!同系列の映画の比較もしています。
目次
《第一次世界大戦》
1.ジョニーは戦場へ行った(1971)
ドルトン・トランボが書いた反戦小説「ジョニーは戦場へ行った」(1939)を、ハリウッドでの赤狩り時代の苦難の時を経て、トランボ自身が映画化した問題作です。
この映画のことを知ったのは『栄光なき天才たち』(作:伊藤智義、画:森田信吾)という漫画からでした。この作品にドルトン・トランボの章があり、彼が書いた小説や脚本、そしてハリウッドを襲った赤狩りのこと、その後復権して『ジョニーは戦場へ行った』を撮ったことなどが描かれていました。アメリカのへヴィロックバンド・メタリカの「One」のミュージック・ビデオを観たのはその後のことで、この映画の映像が使われていると聞いて恐る恐る観たことを思い出します。実際恐ろしかったです…。
作品の内容は、戦場がどんなものかわけもわからず、国に求められ鼓舞されて行った若者が、第一次世界大戦という未曽有の戦争を初めて体験して傷ついて帰国した、その後の物語です。もちろん反戦がテーマですが、広い意味で「生と死」について考えさせられる作品です。
第一次世界大戦を描いた映画で最も有名で高い評価を得ているのは『西部戦線異状なし』(1930)でしょうか。第一次大戦の敗戦国ドイツ出身の作家レマルクの同名小説が原作。舞台はドイツで、『ジョニー』と同じように戦場へ勇んで向かった若者たちを描いています。若い命と愛国心―この二作は、いつの時代でも国に利用され、大きな戦いの場では一瞬で吹き飛ぶような軽さで命を散らしてきた若者たちへの鎮魂と警告の映画と言えるでしょう。
《スペイン内戦》
1936年に成立した人民戦線政府に対して、フランコ将軍が反乱軍を蜂起して始まったスペインの内乱で、反乱軍はドイツ・イタリアから支援を受け、人民戦線政府はソ連や国際義勇軍から援助を受けましたが、反乱軍が人民戦線を破り独裁政権を樹立して1939年に内戦は終了しました。多くの欧米の知識人が人民戦線政府を援護し、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイのように義勇軍に参加する者もいました。
2.誰が為に鐘は鳴る(1943)
ヘミングウェイがスペイン内乱に参加した経験から書かれた『誰がために鐘は鳴る』を原作とした、ゲイリー・クーパー、イングリット・バーグマン主演の戦争映画です。
「武器よさらば」(1929)を自身の第一次世界大戦イタリア戦線に従軍した経験をもとに書き、次に参戦したスペイン内戦の体験をもとに「誰がために鐘は鳴る」(1940)を書いたアメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイ―常に死の危険と隣り合わせの人生を歩み、作品にしてきた彼の戦争小説は、勇敢さではなく悲惨さを語るものでした。
1943年に映画化された『誰が為に鐘は鳴る』は、主演がゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンという当時のスターの共演で恋愛映画としても話題になりました。私も初めて観た時は、戦場を舞台にした恋愛映画くらいにしか思えませんでしたが…。
ヘミングウェイをはじめ、数々の著名人がスペイン内戦を援護して、義勇軍「国際旅団」に参加しました。これが「自由のための正義の戦争」だと疑いもせず…映画の主人公ロバート・ジョーダンと同じように。
スペイン内戦は第二次世界大戦の前哨戦、あるいは共産主義VSファシズムの代理戦争といわれ、アメリカ人でこの戦争に参加した経歴がある者は、50年代のアメリカに吹き荒れた反共産主義の嵐「赤狩り」の波に飲み込まれ、共産主義者とみなされ各社会から追放されました。特にハリウッドの赤狩りは世間を大きく騒がせるものになりました。
《第二次世界大戦》
世界恐慌による国力低迷で帝国主義的侵略政策をとっていた日独伊の枢軸国と、米英仏などの連合国との間に起こった世界戦争で、1939年ドイツのポーランド侵攻により勃発し、1941年には日本の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まり、日米間も戦争状態に陥りました。独ソ戦争も始まった同年、戦闘は全世界に拡大し、初めは優勢だった枢軸国も、1943年イタリア降伏、1945年にはドイツ・日本が降伏して大戦は終結しました。
3.プライベート・ライアン(1998)
“Dデイ”と呼ばれたアメリカ陸軍の「史上最大の作戦」ノルマンディー上陸作戦を臨場感あふれるタッチで描いた、スティーブン・スピルバーグ監督渾身の戦争映画です。
この映画はオリジナル脚本ではありますが、基になっている逸話があります。“ナイランド兄弟”の末っ子フレデリックが、上の三人の兄全員が戦死したため前線から引き離され本国に送還されたというものです。母親にとって息子全員が戦死することはショックであり家の存続にかかわるから、という配慮からのようです。この逸話をアレンジして映画化したのがこの作品で、ライアン=フレデリックで、原題は「Saving Private Ryan」“兵卒ライアンの救出”です。つまり、一介の新兵を救い出すためだけに精鋭兵士八人を使った作戦があった―という前提のフィクション戦争映画なのです。
ジャケットやキャッチコピーを見る限り、なにやらえらく勇ましく思えるのですが(実際そんな映画だと思って観たら)、冒頭は延々20分間もノルマンディー作戦の痛々しくも恐ろしい戦闘シーンが続き、いざ作戦が始まっていくと息をのむ展開…しかし!作戦を思い出してください…一兵卒を救出する作戦です。この矛盾のようなものが、この作品の意図するところだったんだな、と思えたのがほぼラスト近くです。
第二次世界大戦という大きな戦いの中の、しかも最重要局面であるノルマンディー上陸作戦で、多くの兵士たちが死にゆく中、たった一人の兵士を助けるために命を懸けた兵士たちこそ英雄なのでは?その助けた命が未来に繋がれていくことこそが重要なのでは?という問い―ラストの年老いたライアンがそれを象徴しているように思えます。
同じノルマンディー上陸作戦を描いた戦争大作といえば『史上最大の作戦』(1962)ですが、こちらは史実に沿ってDデイが完遂するまでを、ジョン・ウェインやロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダといった当時のオールスターキャストで壮大に描いたいわゆる超大作です。
4.トラ トラ トラ!(1970)
黒沢明監督が途中降板したことでも有名な、真珠湾攻撃をめぐる日本軍とアメリカ両国の動きを題材にした日米合作の戦争映画で、国際的に公開された「アメリカ公開版」と、日本国内のみの「日本公開版」があります。
近年、同じ真珠湾攻撃がテーマの『パールハーバー』(2001)との比較で話題となっている日米合作の『トラ・トラ・トラ!』ですが、アメリカと日本両視点から描かれているというと、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』をすぐ思い出します。これに先駆けてこのような日米合作の太平洋戦争を描いた映画が作られていたことに驚きます。
こんな偏りの少ない作品が作られた時代背景としては、アメリカがベトナム戦争の泥沼にいたこと、反体制・反戦の機運が盛り上がっていたことなどがありますが、それにしてもアメリカ国内が直接攻撃されるという内容や、日本側の視点を大幅に取り入れて史実に即したものになっていることは、後々『パールハーバー』と比較しても十分再評価に値するものでした。
アメリカ側からすると真珠湾攻撃の奇襲作戦は屈辱でしかなく、実際『パールハーバー』では完全にアメリカ側の視点に立っての展開となり、興業的にも『トラ・トラ・トラ!』よりも成功しています。同じ戦争を描いても視点が異なることでこんなにも作品に差が出るというのは、人や国の視点がどれほど曖昧で主観的かを思い知らされます。
この映画で特筆する点はもう一つ、この映画製作のために旧日本海軍の航空機が飛行可能の実用機として再現されたことです。これらの航空機はその後『パールハーバー』にも使われ、その他の戦争映画でも日本軍機役として登場しているそうです。
5.父親たちの星条旗(2006)
クリント・イーストウッド監督による“硫黄島プロジェクト”の、太平洋戦争での硫黄島の戦いをアメリカ側の視点に立って描いた作品です。日本側の視点で『硫黄島からの手紙』も日本人キャストにより製作、日米で連続公開されました。
太平洋戦争最大の戦いとなった硫黄島の戦いを、日米両方の視点から描いた二作品『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』は戦争映画の製作方法としては画期的な試みだったと思います。前述の『トラ・トラ・トラ!』のような例もありますが、とかく戦争映画というのは製作国の視点からしか描けないものです。
『父親たちの星条旗』は、硫黄島の死闘での摺鉢山山頂に星条旗を打ち立てている有名な写真「硫黄島の星条旗」の被写体となった兵士たちのその後が描かれる作品です。この写真はジョー・ローゼンタール撮影の報道写真で、現在でも太平洋戦争における重要な転換時の象徴的な写真としてよく知られています。
この写真に写った一人、海軍兵ジョン・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリーが、実際に硫黄島で何があったのかを、星条旗掲揚に立ち会った兵士たちの家族から聞き書きしてまとめたものが「硫黄島の星条旗」(2000)で、この映画の原作となりました。父が硫黄島で何をしたのか、何を思っていたのかを知りたいという純粋な息子の気持ちから発した作品で…ふと思い出すのは『永遠の0』(2013)です。こちらは孫が祖父のことを調べるものですが、自分のルーツを探り家族のあり方と自分の未来を見つめなおすという点では同じです。そういう純粋な気持ちには国が違うことなんて関係ない…と思いたいものです。
《朝鮮戦争》
第二次大戦後、朝鮮半島が米ソによって北=共産主義、南=資本主義に、北緯38度線で分断され、1948年に韓国と北朝鮮が建国しました。1950年に北朝鮮が38度線を越えて軍事侵攻してきたため朝鮮戦争が勃発しました。一進一退を繰り返し、38度線で膠着状態に陥ったため、1953年休戦しましたが、半世紀以上経つ現在も民族は分断されたまま、南北統一の悲願は果たされていません。
6.ブラザーフッド(2004)
『シュリ』のカン・ジェギュ監督による、朝鮮戦争勃発で突然日常から切り離された兄弟の闘いと絆を描く戦争ドラマで、主演はチャン・ドンゴンとウォンビンが務めています。
第二次世界大戦の末期、朝鮮半島の共産化を恐れたアメリカが、ソ連と北緯38度線で分割・占領し、1948年に南部に韓国、北部に北朝鮮がそれぞれ建国されました。この南北問題というテーマは現在でも映画・ドラマ・歌など様々な形で提起され続けています。
1950年6月に勃発した朝鮮戦争によって、強制的に軍に入隊させられ最前線に送り込まれた兄弟の物語で、戦争に翻弄される若者たちを描いています。映画では、最前線のアメリカ軍の戦車や航空機は登場していても、高官以外のアメリカ軍兵士の姿が見当たらず、実際この戦争での戦死者は韓国軍42万人、アメリカ軍は5万人と大きく開きがあります。また民間人の犠牲者は100万から200万ともいわれ、いかに多くの市民を巻き込んだ戦争だったかがうかがえます。
同じように少年兵たちの朝鮮戦争を描いた作品が『戦火の中へ』(2010)で、学徒動員された少年が母に当てた手紙を基にした物語です。他にも38度線問題では、軍事境界線の共同警備区域(JSA)をテーマにした『JSA』(2000)があります。ストーリー自体はフィクションでありながら、ミステリーの形をとって南北問題に焦点を当て、現在も徴兵制度が続く韓国の実情を浮き彫りにした佳作です。
《キューバ危機》
1962年、キューバのミサイル基地をめぐって米ソ間で対立が激化しました。キューバのソ連ミサイル基地建設に対しアメリカは海上封鎖を行い、両国間の緊張が高まる中、核戦争まで懸念される事態になりましたが、慎重な交渉の末、アメリカのキューバ不侵攻とソ連のミサイル撤去を確約することで妥協が成立し、全面戦争は回避されました。2015年には歴史的会談で国交回復について話し合ったアメリカとキューバですが、この長き国交断絶の原因を作ったのが、このキューバ危機でした。
7.13デイズ(2000)
1962年、ケネディ大統領在任時の東西冷戦中に起きたキューバ危機を扱った作品で、大統領をサポートする補佐官ケネス・オドネルをケビン・コスナーが演じています。
この作品はスリリングな展開の政治サスペンス映画で、アメリカとキューバ(ソ連)との全面戦争、世界が核戦争に限りなく近づいた13日間を描いています。キューバ・ソ連との交渉に当たったのは、ケネディ大統領、その弟の司法長官ロバート・ケネディ、そして大統領補佐官ケネス・オドネルです。作中の軍部の描き方が好戦的に描かれているため、国防総省からの協力が一切得られなかったという逸話が残っています。
しかし緊迫したやり取りや、海上封鎖に向かう海軍、空軍が送り込んだ偵察機などの描写が当時の緊張感をリアルに映し出しています。あくまでもフィクション映画ではあるので、史実とは異なる部分もありますが、指導者として、国のリーダーとして悩めるケネディ大統領を描き、いざという時の決断力がどれほど重要で、どのように世界を動かすかが、この映画から感じ取ることができます。
ケビン・コスナーはケネディ大統領暗殺をテーマにした『JFK』(1992)にも主演しています。オリバー・ストーン監督はこの作品で、政治の黒い闇を暴こうと奮闘する実在の地方検事ジム・ギャリソンに真実の究明を託して、アメリカという国の“良心”に問いかけています。
《ベトナム戦争》
フランスの植民地支配から独立したベトナムの南北統一をめぐる戦いで、1960年に北ベトナムの支援を受けて結成された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が、南ベトナム軍と戦闘を開始しました。アメリカの参入により戦闘は激化しましたが、1969年に臨時革命政府が樹立し、1973年には和平協定が成立して、アメリカ軍が撤退しました。1975年、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、翌年南北が統一されました。
8.グッドモーニング、ベトナム(1987)
ベトナム戦争時AFN(米軍放送網)で革新的なDJとして知られた実在の人物エイドリアン・クロンナウアを描いた、ベトナム戦争映画には珍しいヒューマンドラマ作品です。
ベトナム戦争によってアメリカは大きな転換期を迎え、政治・文化・生活すべての面での変革を迫られました。映画界でもベトナム戦争映画はさまざま作られ、それまでアメリカで作られてきた戦争映画とは全く違った視点で製作されるようになりました。それは対外的な戦争で初めての敗北を味わったからこその、自省の念やヒューマニズム、あるいは戦場そのもの、そこでの「生と死」を深く考える機会を与えられたようでした。
数あるベトナム戦争映画の中でも、私が一番心に残っているものが『グッドモーニング、ベトナム』です。滑舌鋭い若きロビン・ウィリアムズが冒頭からぶちかますマシンガントークやそれを聴く米兵士たちの笑顔、ベトナム人の友人との交流、ベトナムに住む人々の日常などが明るく丹念に描かれていて、一瞬戦争映画ということを忘れそうになります。ところが突然後半で現実を突きつけられるのです。特に印象的なシーンが、ルイ・アームストロングが歌う「What a Wonderful World」にのせて描写されるベトナム戦争で起きた現実です。「この素晴らしき世界」と歌っている中で起こる米軍の空爆やベトコン射殺、市民のデモや泥沼に足を踏み入れる米兵たち…この逆説的な世界こそが現実だと思い知らされます。
ラストでベトナムを去るクロンナウアの“兵士たちがみな無事に帰れますように”という祈りは、その後泥沼化するベトナム戦争を知っている観客にとっては生ぬるいヒューマニズムにもとれますが、この思いが普遍的なものということも否定できないところです。
9.ディア・ハンター(1978)
ベトナム戦争徴兵により、平凡な日常を一変させられるロシア系移民青年たちの物語で、過酷な戦場体験だけでなく、帰還後の実情も描いた戦争映画の秀作です。
前半と後半で大きく場面転換する手法を取ったベトナム戦争映画といえば『ディア・ハンター』と『フルメタル・ジャケット』です。『ディア・ハンター』の前半ではペンシルバニア州の小さな町でゆったりとした流れで進みますが、ベトナムへ出征した後半では一転、捕虜になった挙句、ロシアン・ルーレットによる処刑の恐怖と緊張に晒されることになります。
一方『フルメタル・ジャケット』の前半は逆に緊張感たっぷりの海兵隊訓練所での新兵への強烈な特訓から始まり、後半で戦場へ送られます。前半部分のラストに衝撃が走ったまま後半部分に突入し呆気にとられつつ、また戦場での緊張の連続が続くので、ずっと引き込まれたまま目が離せません。まるで自分も戦場にいるような錯覚に陥ります。監督のキューブリックが意図した“戦争そのもの”を描くことが効果的に表れています。
『ディア・ハンター』のディアは“鹿”で、休日に鹿狩りを楽しんでいた田舎の青年たちが、ベトナム戦争を経験したことで心身ともに病み、鹿さえ撃てなくなってしまったという、日常から戦場への対比が秀逸です。どちらの作品も戦争の狂気を映し出していますが、『ディア・ハンター』の描写はこの二部構成の緩急の差が、よりその狂気を際立たせていると思います。
10.プラトーン(1986)
自らもベトナム帰還兵だったオリバー・ストーン監督による、実体験から作られたベトナム戦争映画で、戦争という状態に次第に慣れていく恐ろしさと、ベトナム戦争の現実を描いています。
ベトナム帰還兵であるオリバー・ストーン監督による実体験を基にしたベトナム戦争映画で、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』同様、経験を踏まえた作品はその戦争の現実を否応なく突きつけてきます。戦闘の描写が説得力を持っています。タイトルの“プラトーン”とは小隊のことで、主人公クリスが配属された小隊での鬼軍曹バーンズとエリアス軍曹との対立や、誤爆・同士討ちや麻薬、民間人虐殺や放火など、日常では考えられない戦争の現実を描き出しています。
長く戦場にいて狂気を帯びた上官というテーマでは、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979)が思い出されます。ベトナム戦争映画の中でも戦争の実態を描くというよりは哲学的志向の作品で、戦場で暴走したカーツ大佐を暗殺するためにベトナムへ戻ったウィラード大尉が物語を語ります。戦闘シーンよりも抒情的な映像が印象的ですが、やはり前半の「ワルキューレの騎行」を大音量で流しながら空爆するシーンや、冒頭とラストでのドアーズの「The End」の使い方などは演出としては秀逸です。
オリバー・ストーン監督は『プラトーン』の後にベトナム三部作として、ベトナム帰還兵の反戦運動を描いた『7月4日に生まれて』(1989)と、戦渦に巻き込まれたベトナム人女性の一生を描いた『天と地』(1993)を製作し、自らの体験を昇華させています。
《カンボジア内戦》
1970年軍事クーデターにより王政から共和制になり内戦に突入し、この間に勢力を拡大したポル・ポト率いるクメール・ルージュが1975年に首都プノンペンを制圧し、民主カンボジア政府を樹立しました。住民たちを農村へ強制移動させ、過酷な労働を強い、この間には反抗分子の大量虐殺も行われていました。1979年にはカンボジア人民共和国が樹立し、民主カンボジア政府はタイ国境の山地へ逃れ、1991年に国連による和平協定が締結されるまで内戦状態は続きました。
11.キリング・フィールド(1984)
ニューヨーク・タイムズ記者とカンボジア人記者が体験したカンボジア内戦を、二人の友情を織り込んで描いた作品で、“キリング・フィールド”とは大量虐殺が行われた“殺戮の地”という意味です。
この映画を観るまでは、ベトナム戦争がカンボジア内戦に繋がっていることが、よくわかっていませんでした。観た後にインドシナ半島の戦乱の歴史を調べて勉強していくうちに、アメリカ軍がインドシナ半島でしてきたこと―空爆被害が、後々にこんなに広い範囲で影響を及ぼしていることに驚きました。
この映画では米軍によるベトナム北爆から始まり、親米のロン・ノル将軍の軍事クーデターと米軍のカンボジア侵攻と介入、クメール・ルージュの支配、1973年の米軍の撤退とクメール・ルージュ体制崩壊前までを描いています。主人公となる二人の記者、アメリカ人のシドニー・シャンバーグとカンボジア人のディス・プランが体験するカンボジア内戦は、アメリカ軍の介入によりインドシナ戦争へと発展します。米軍撤退で帰国を余儀なくされたシャンバーグが観ているテレビ映像には、インドシナに介入して半島に戦火が広がった様子が映っていました。
シャンバーグが帰国した後、プランは農村での強制労働に連れて行かれ、ポル・ポト派による知識人・反抗分子の虐殺を目の当たりにします。映画の後半はプランの見たクメール・レジームの様子です。この作品でプランを演じたハイン・S・ニョールは、プランと同じ境遇をたどってアメリカへ移住した俳優でした。あまりにも似た人生を歩んできた二人だからこそ、この作品にかけた思いが重なり、観る側にも伝わったような気がします。
《ソマリア内戦》
ソマリア内戦は1991年以降激化・泥沼化していました。1993年、最大勢力の統一ソマリア会議のアイディード将軍が、人道目的で派遣されていた国連軍に宣戦布告し、国連軍のパキスタン人を24人殺害しました。これを受けてアメリカが軍事介入しましたが、首都モガディシオでの市街戦で作戦は失敗し、これ以降アメリカは他国の内戦への介入に慎重になっていきました。
12.ブラックホーク・ダウン(2001)
リドリー・スコット監督によるソマリア内戦への米軍介入を描いた戦争映画で、米軍のヘリコプター「ブラックホーク」が撃墜され、泥沼の市街戦に突入する様子を克明に描いています。
1993年、泥沼化していたソマリア内戦の鎮圧のため、当時のクリントン大統領が軍事介入に踏み切りました。30分で終わるはずだった奇襲作戦が、米空軍の多目的ヘリ“ブラックホーク”撃墜により、混乱の市街戦へともつれ込みます。この戦いで1000人以上のソマリア人が犠牲となったといいます。他国の内戦・紛争への介入は予想外の出来事の連続であり、複雑に絡み合う民族紛争などは介入が非常に困難であるということを、アメリカもついにこのブラックホーク撃墜により悟ったわけです。
この軍事介入の失敗以降、世界の警察としてのアメリカは他国への軍事介入に慎重になりました。ソマリアの内政混乱は20年以上経つ今も、いまだに収束していません。
《湾岸戦争・9.11・イラク戦争》
1990年イラクのサダム・フセインがクウェートに侵攻し、翌年アメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍と戦闘を行いました。アメリカが行った空爆の様子をテレビのライブ映像で米国中の人々が見た、「正義」の名のもとに行われた戦争ですが、現在では本当の目的は石油資源の利権確保だったのではないかと指摘されています。
そして2001年9月11日、国際テロ組織アルカイダによる飛行機ハイジャック攻撃で、ワールド・トレード・センタービルが崩壊し、アメリカの「テロとの戦い」が開始されました。10年後の2011年、テロの首謀者とされたウサマ・ビン・ラディンがアメリカの特殊部隊により殺害されました。
2003年、アメリカとイギリスがイラクの大量破壊兵器保有疑惑を理由にイラクを攻撃し、二か月足らずでフセイン政権は崩壊しました。しかしその後イラク情勢は不安定になり、現在過激な行動で世界を騒がせている“イスラム国 IS”など過激派組織の台頭を招くこととなりました。
13.ジャーヘッド(2005)
湾岸戦争に一兵士として派遣された青年が綴った「ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白」を基に、サム・メンデス監督が映画化した作品です。
この作品は湾岸戦争に派遣されながらも戦闘には参加しなかった兵士の手記が原作です。使命感を胸に抱いて派遣された先に待っていたのは果てしなく続く砂漠、そして油田の警護と待機する毎日でした。湾岸戦争のイメージといえばテレビのライブ映像に映し出された、まるで映画のような戦争でしたが、この映画にはそんな戦闘シーンはほとんど出てこず、切り口の異なった戦争映画として評価されています。
湾岸戦争を描いた他の作品に、戦争アクションでありブラックコメディの『スリー・キングス』(1999)、砂漠の嵐作戦の中起こった誤射事件を探る『戦火の勇気』(1996)などがあります。また、生物兵器の使用や湾岸戦争症候群の謎に迫る『ガルフ・ウォー』(1998)は、体験者の証言・インタビュー、実際の映像と再現映像で構成されたセミ・ドキュメンタリーです。湾岸戦争症候群は、従軍した多国籍軍兵士に集団的に発生した病状を総称したもので、原因の特定はできておらず、症候群の存在そのものが公式に認められていません。
14.ワールド・トレード・センター(2006)
2001年9月1日、アメリカ同時多発テロにより崩壊したワールド・トレード・センタービルで、人命救出を行おうとした人々のドラマを、実話から忠実に描いた作品です。
2001年に起きた同時多発テロをすぐ映画の題材にするには衝撃が強すぎ、ハリウッドではかなりの時間を要したようです。このテーマで初めて映画化されたのは『11′09″01/セプテンバー11』(2002)で、世界各国の11人の監督による11分9秒のエピソードをまとめたオムニバス映画です。そして『9.11 N.Y.同時多発テロ衝撃の真実』(2002)は、同時多発テロの現場で偶然にも撮影中だったフランスのノーデ兄弟によるドキュメンタリー・フィルムです。
そしてその二年後、マイケル・ムーア監督が『華氏911』(2004)を製作しました。同時多発テロの第一報を聞いてしばし呆然とするブッシュ大統領を映し、痛烈に批判しました。そのまた二年後には、ハイジャックされた旅客機の乗客・乗務員たちのドラマを描いた『ユナイテッド93』(2006)と、世界貿易センタービルでの惨劇と人命救助を描いた『ワールド・トレード・センター』(2006)が公開されました。二つの作品が伝えるのは極限状態にある人が人のためにいかにベストを尽くそうするかと、救助に尽力する力はテロという暴力に勝るということでした。
15.ハート・ロッカー(2009)
2004年、イラク戦争時中におけるアメリカ軍爆弾処理班を描いた戦争映画で、キャスリーン・ビグロー監督は、2012年にもビン・ラディン捕獲殺害作戦に挑んだ特殊部隊を描いた『ゼロ・ダーク・サーティ』を製作しています。
2003年に起きたイラク戦争の大義であった大量破壊兵器の存在は証明されることなく、イラク情勢は泥沼化していきました。この不毛な戦争の現実を、爆弾処理班を通して伝えた『ハーロ・ロッカー』(2008)では、爆弾の処理、ゲリラ攻撃との戦いなど緊迫した状況が続きギリギリの精神状態に追い込まれていく兵士たちをリアルに描いています。
2010年には『ユナイテッド93』のポール・グリーングラス監督による『グリーン・ゾーン』が製作され、バグダッドで大量破壊兵器の捜索任務を負った兵士を描きました。
また、『ハート・ロッカー』のキャスリーン・ビグロー監督は、2012年『ゼロ・ダーク・サーティ』でウサマ・ビン・ラディンの捕獲殺害作戦に挑んだネイビーシールズ特殊部隊を題材に選び、ビン・ラディンのパキスタンの隠れ家をヨルダンに完全再現し撮影に臨みました。一方でCIAの協力による機密漏えい問題やオバマ政権の反対派からの政治的論争を呼んだことも話題になりました。